青 猫
爱这美丽的都会是件好事
爱这美丽的都会建筑是件好事
为寻觅所有温柔的女性
为寻觅所有高贵的生活
来这都市经过热闹的街道是件好事
沿街道植的樱花道树
那里不也是无数麻雀鸣啭着吗?
啊 在这大都会的夜入睡的
只是一只青猫的影
讲述悲哀的人类历史的猫的影
我寻觅不已的幸福的青影。
想如何寻觅影
下雨雪的日子我也眷恋东京
冷得靠着那里后街的墙
这人样的乞丐在做着什么梦呢?
青 猫
この美しい都會を愛するのはよいことだ
この美しい都會の建築を愛するのはよいことだ
すべてのやさしい女性をもとめるために
すべての高貴な生活をもとめるために
この都にきて賑やかな街路を通るのはよいことだ
街路にそうて立つ櫻の並木
そこにも無數の雀がさへづつてゐるではないか。
ああ このおほきな都會の夜にねむれるものは
ただ一疋の青い猫のかげだ
かなしい人類の歴史を語る猫のかげだ
われの求めてやまざる幸福の青い影だ。
いかならん影をもとめて
みぞれふる日にもわれは東京を戀しと思ひしに
そこの裏町の壁にさむくもたれてゐる
このひとのごとき乞食はなにの夢を夢みて居るのか。
在都会夜空入睡的“青猫”的影。虽然那让人感到某种美,但这是萩原朔太郎个人的情意表象,一般来说难解的构词。
关于此《青猫》的词义,萩原朔太郎在《定本青猫》的《自序》中,部分如下所写。
“正如集中的诗《青猫》表现的那样,是把都会天空映出的电线苍白的火花看成了大的青猫的影像,象征了当时在乡下写诗的我对都会苦闷的乡愁[ 集中の詩『青猫』にも現れてるごとく、都会の空に映る電線の青白いスバークを、大きな青猫のイメージに見ているので、当時田舎にいて詩を書いてた私が、都会への切ない郷愁を表象している]”。实际上,这解说并不充分,此词语所寓意的本质是“对都会的乡愁”。
此诗前半,将那“对都会的乡愁”作为一种美的形式讲述。那里有美丽的建筑,居住温柔的女性,有热闹的街道,有樱花道树。是那样有闲情雅趣的都会。那不是现实的都会(例如东京),而是夜空映出“电线苍白的火花”的幻想都会。在梦想近代生活、情操和美存在的,不同于乡下迷人的,映出青猫影像的都会。